大判例

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大阪高等裁判所 昭和55年(ネ)2210号 判決

主文

一  一審被告景岳会の控訴を棄却する。

二  原判決中一審被告大阪市敗訴部分を取消す。

一審原告の一審被告大阪市に対する請求を棄却する。

三  一審原告の一審被告景岳会に対する控訴に基づき原判決中一審被告景岳会に関する部分を次のとおり変更する。

一審被告景岳会は一審原告に対し金三三七六万五三〇〇円及び内金三〇七六万五三〇〇円に対する昭和五一年四月二三日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

一審原告のその余の請求を棄却する。

四  一審原告の一審被告大阪市に対する控訴を棄却する。

五  訴訟費用は、一審原告と一審被告大阪市との関係では第一、二審とも一審原告の負担とし、一審原告と一審被告景岳会との関係では第一、二審を通じてこれを五分しその二を一審原告の負担とし、その余を一審被告景岳会の負担とする。

六  この判決は主文第三項中一審原告の勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  申立

一  一審被告景岳会

(昭和五五年(ネ)第二二一〇号事件につき)

1  原判決中一審被告景岳会の敗訴部分を取消す。

2  一審原告の同被告に対する請求を棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも一審原告の負担とする。

(昭和五五年(ネ)第二二二七号事件につき)

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は一審原告の負担とする。

二  一審被告大阪市

(昭和五五年(ネ)第二二一一号事件につき)

1  主文第二項同旨。

2  訴訟費用は第一、二審とも一審原告の負担とする。

(昭和五五年(ネ)第二二二七号事件につき)

1  主文第四項同旨。

2  控訴費用は一審原告の負担とする。

三  一審原告

(昭和五五年(ネ)第二二一〇号事件につき)

主文第一項同旨。

(昭和五五年(ネ)第二二一一号事件につき)

本件控訴を棄却する。

(昭和五五年(ネ)第二二二七号事件につき)

1  原判決を次のとおり変更する。

2  一審被告らは各自一審原告に対し金五七〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和五一年四月二三日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は第一、二審とも一審被告らの負担とする。

4  仮執行宣言。

第二  主張

次に記載するほか原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(原判決の訂正)

原判決六枚目表七行目冒頭「は」を「が」と、同九枚目裏一行目「古田効男」を「古田效男」と各改め、同一〇枚目表一一行目「保育器」の前に「原告を」を、同一三枚目裏末行及び同一四枚目表三行目各「中山」の次に「看護婦」を各加え、同一五枚目裏二行目から三行目にかけて「未熟網膜症」とあるを「未熟児網膜症」と、同一八枚目表一行目「二週間」を「三週間」と各改め、同四行目「照」の次に「ら」を加え、同二九枚目裏六行目「ステージー」を「ステージⅠ」と改め、同三八枚目裏一〇行目上段に「正しく、」とあるを削り、同四二枚目裏五行目「(290224―126032)」を「(29.0224―12.6032)」と、同一二行目「309804」を「30.9804」と各改め、同四九枚目表四行目「午前一二時三〇分」を「午後〇時三〇分」と、同裏七行目「午前一二時四〇分」を「午後〇時四〇分」と、同五二枚目表六行目「午前一二時一〇分」を「午後〇時一〇分」と各改め、同五五枚目裏四行目「虹彩、」を削り、同六二枚目表六行目から七行目にかけて及び同八行目に各「午前一二時一〇分」とあるを各「午後〇時一〇分」と、同七二枚目表八行目「鑑る」を「鑑みる」と、同七四枚目表八行目から九行目にかけて及び同裏三行目から四行目にかけて各「古田効男」とあるを「古田效男」と各改める。

(当審における一審原告の主張)

一  本症の治療の困難性について

本症について発症原因など未解明の部分はあるが、光凝固あるいは冷凍凝固を適切に行えば治癒しうることは既に医療上確定した事実である。本症に対する右治療方法の有効性は一審原告出生当時は確定し実施に移されていた。そして適切な眼底検査による早期発見が行われるならば、その治療の適期を発見することができることも医療上周知の事実になつていた。

このようなわけで、およそ眼科医ならば経験さえ積めば眼底検査及び光凝固、冷凍凝固の施療もできるようになるし、仮にその経験がない場合には大阪府下はいうに及ばず近隣府県には多くの施療の経験者を見出すことが可能な状況にあつた。従つて原審で主張した医師としての注意義務が誠実に尽されさえすれば、一審原告出生当時では本症は治療が困難な疾病とはいえなかつたのである。

二  各医師個人の配慮と努力について

木村医師(南大阪病院眼科の医師)の場合、昭和五一年三月一〇日、一七日の両日実施した一審原告の眼底検査は、本症についてほとんど無知に近い状況のまま行われ、適切な処置が行われていないばかりか、カルテの記載すら本症診断にとつて肝要な部分が脱漏している状況であり、三月三一日の眼底検査に至つては何も診ていないに等しい内容のものであり、同医師の診療行為のどこにも配慮と努力の跡を見出すことはできない。

古田医師(南大阪病院眼科の医師)の場合、木村医師の依頼を受け三月二四日に一審原告の眼底検査を行つているが、木村医師の指導医として、同医師が本症に関し殆ど未経験でありその診断が信のおけないものであることを容易に判断できる立場にありながら、同医師の第二回目の眼底検査(三月一七日)から一週間を置いたのは杜撰であつたというべきであるし、右二四日の眼底検査の結果手術の必要があることを判断しながら、その後の処置は医師としてのモラルの存在を疑わしめるほどの無責任なものであつたことは原審で主張したとおりであつて、古田医師の処置に配慮と努力が認められるものではない。阪本医師(大阪市立大学付属病院眼科の医師)の場合、一審原告の本症診断に当つては従前の推移を把握することが不可欠であるにもかかわらず、その詳細を問い合せることもせず、そのうえ本症について知識と経験もないにもかかわらず一週間経過観察と診断した無責任さは重大である。

三  一審原告の蒙つた損害について

一審原告は昭和五七年二月八日で満六才となるが、まだ自分で箸を使うことができない。双子の姉恵美子は三才頃から箸が使えるが、一審原告は眼が見えない故に箸が使えないのである。

子供は他者を模倣し、試行錯誤を繰返す中から物事を習得し成長して行くものであるが、一審原告は眼が見えないから他者が何をしているかわからず、その試行錯誤さえ一人では行うことができない。

このように目が見えないものは物事の習得につき晴眼者と較べて時間と労力を要し、なかなか習得しえないことに加え、眼が見えないことにより物事に対し恐怖心・警戒心が強いことから、その性格は消極的となるが、一審原告も性格の消極性から運動不足になり、体力養成のためスイミングスクールに通つている。また新しい食物はなかなか食べようとせず食事も偏りがちとなる。

一審原告は視覚の欠落を少しでも補うため、晴眼者以上に触覚・聴覚を磨く訓練をしなければならない。現在、週一度養護教育センターで触覚等の訓練を受け、週一度ピアノの練習を受けて音感・指の訓練を行つている。ピアノの練習も、健常児のお稽古事と異なり、一審原告が将来社会生活を送つていくうえで必要不可欠の訓練として行つているものであり、遊び事ではないのである。

一審原告の教育にも又晴眼者の何倍もの苦労を伴う。視覚によつてはじめて感得できるもの(美しい・汚い・明るい・暗い)等は、その概念を理解すること自体が極めて困難である。

盲人にとつては点字を習得することが教育の第一歩であるが、その点字を習得したとしても、読み、書きのスピード・点字本の少なさ、点字タイプ、点字コピーの少なさ、高価さなど晴眼者に較べてのハンディは否定しようもない。公的機関が依頼した場合「ライトハウス」で点訳してくれることもあるが、小学校一年生の国語教科書上下二冊で点訳料が二五万円もかかるのである。

一審原告の蒙つた被害の重大性、深刻さを考えると、その精神的、肉体的苦痛が極めて大きいのであり、一審被告らが賠償すべき慰籍料はそれらに相応すべきものであり、原判決の認定した金二五〇〇万円の賠償額は低きに失するものである。また弁護士費用二五〇万円の認定も同様である。

四  一審原告の未熟性について

一審原告の出産については次のような経緯があり、一審被告景岳会が、一審原告の未熟性を主張することは信義則上許されない。

一審原告の母和子は、昭和四八年三月一日長女幸子を南大阪病院で出産したが、在胎約八か月の早産で未熟児であつたため、今回の出産に際しては早産防止の為自ら希望して昭和五一年一月二〇日から入院していたものであるところ、原審でも主張したとおり南大阪病院の産科担当医らは双胎であることを知らなかつたのである。

このため双胎の場合は一般に胎児が小さいので可及的に在胎期間を伸長して胎児の成熟を図る処置をとるのが通例であるのに、和子に対しては何らその処置をとることなく放置した為分娩予定日は同年三月二〇日であるのに、同年二月八日に一卵性双生児を出産し、第一児(二女杉本恵美子)生下時体重一四〇〇グラム、第二児(三女一審原告)生下時体重一二〇〇グラムという極小未熟児を出産するに至つたものであるから、一審被告景岳会は自ら極小未熟児出産の責任の一端を荷なうものである。

また原判決は、乙第一号証(カルテ)により南大阪病院では一審原告が双生児であることを知つていた旨認定したが、同号証の第一頁は、初診日欄に七月を一月と誤記しており、これは後日同号証三枚目の初診日の記載「18/2」を書き写す際に読み違えた結果と思われるし、診断欄に「1、双胎、2、経産婦」と記載してあるが、初診日には妊娠かどうかすら判らなかつたのであるから、診断の順序に従えば、右記載は「1、経産婦、2、双胎」となるべきものであつて、極めて不自然な記載であり、これらは、乙第一号証が後日偽造されたことの証左である。

(当審における一審被告大阪市の主張)

一  昭和五一年三月二四日時点での古田医師の所見と判断について

古田医師は、一審原告に対し直ちに光凝固が必要であると判断した根拠を、境界線が従来より後極部の方へ更に進んできた、即ち境界線の幅が広くなつてきたからであると証言している。境界線の幅が広くなつてきたという表現は、無血管帯が広がつてきたという表現の誤りと思われるが、血管の見えない部分が後極部の方に広がるという症状の進行状況は医学上全く理解できないことであつて、おそらく網膜剥離が生じてきた状態をそのように見誤つたのではないかと松山医師(大阪市立大学付属病院眼科の医師)は推測している。

また古田医師が同時点で認めたヘイジー・メデイアは、三月一〇日、一七日の木村医師の診察で全く認められていないから、一七日以降に生じたものと考えられるが、松山医師は四月一日に見られた硝子体の瀰漫性の混濁は、一審原告のぶどう膜炎に由来したものと推測しており、ぶどう膜炎は網膜剥離が長期間続いた場合に起ると理解されているから、その症状がかなり重篤であることからすれば、硝子体の混濁は四月一日よりかなり遡つた時点において既に始まつていたと考えられる。

してみれば、古田医師がヘイジー・メデイアと考えたのは、未熟児眼底一般において出生直後に見られる真のヘイジー・メデイアではなく、網膜剥離もしくはこれに続くぶどう膜炎に起因した硝子体混濁であつて、同医師がこれをヘイジー・メデイアと見誤つたものと考えられる。

一般に光凝固法の適応は、副作用との関係で、殊にⅠ型の場合、できるだけ遅らせる傾向にある一方、適期を逸すると網膜剥離を来し手遅れとなるため、その実施に適する期間は極めて短く、そのタイミングの判断には高度の熟練を要するとされている。

ところで、古田医師は、本件以前において本症の患者に光凝固法を自ら実施したことはなく、ただ担当した患者のうち二症例について光凝固法を受けたことがあるが、右二例はいずれも本件に比してデマーケーション・ラインが周辺部寄りにあり、無血管帯の幅ははるかに狭かつたというのである。従つて、右の二症例はいずれもその臨床経過は不明であるものの、光凝固法の実施を要した以上、かなり重篤な症例であつたことは間違いないのであるが、古田医師によれば、本件はそれに比較してはるかに進行していたというのである。従つて、右に述べた光凝固法の適応の一般的な在り方からしても、本件においては既に適応の時期を逸していた、換言すれば網膜剥離を来していた可能性は極めて高いものと考えられる。

それにも拘らず古田医師は三月二四日時点では一審原告に対し、未だ光凝固法の奏効する余地があつたと述べているのである。光凝固法は一ジオプトリー以上の網膜剥離には不適応であるとされるところ、同医師は一ジオプトリー程度の網膜剥離の判別は容易であると述べ、本件の場合三月二四日の時点で網膜剥離を認めなかつたと断言しているが、この点について臨床経験の豊富な松山医師は、一ジオプトリー程度の網膜剥離の識別はかなり熟練度がないと困難であると述べている。光凝固法を要する重篤例を経験したことがわずか二例しかなく、しかも自ら光凝固法を実施したことのない古田医師の右の判断に信憑性があるものとはとうてい考えられない。

以上のとおり、古田医師の三月二四日の診察結果及び治療の適否に関する判断は、松山医師の診察所見と甚しく矛盾するものであり、これを矛盾なく理解するためには、既に網膜剥離あるいはぶどう膜炎を来し、これによる硝子体混濁が生じている状態を、おそらく一審原告の散瞳状態が極めて悪いため、古田医師は十分な観察をすることができず、見誤つたことによるものと考えるほかはないのである。

(当審における一審被告景岳会の主張)

一  木村医師の過失について

木村医師が杉本恵美子(第一児)の眼底検査を行つた昭和五一年三月一〇日から同年四月一五日までの間に同女が未熟児網膜症に罹患していたことを示す証拠は存在しない。

関西医科大学眼科学教室の研究結果である「未熟児網膜症の発生時期について」と題する論文(昭和五〇年二月日本眼科紀要二六巻二号―乙第八号証)によれば、本症の発生時期については、生後一四日から八六日までくらいのばらつきがあり、しかも在胎週数の短いものほど遅く、生下時体重の軽いものほど遅く発症する傾向が認められるという結果があらわれたとのことである。

ところで右恵美子は、昭和五一年二月八日、在胎週数三四週、生下時体重一四〇〇グラムで出生し、同年四月一五日(生後六八日目)に南大阪病院を退院したというのであるから、右論文に照らせば、同女が南大阪病院を退院した以後に本症に罹患したとしても何ら不自然ではなく、同女が南大阪病院を退院するまでは何らの異常がなかつたとの木村医師の診断には合理性がある。

未熟児の眼底検査それ自体は、眼科医ならば僅かの期間内でこの技術は習得可能であり、木村医師も当時未熟児二〇ないし三〇名の眼底検査をした経験を有しており、この点について同医師に未熟性はない。

しかし、眼底検査の結果、本症発症が明らかになつた場合に、どの時期に光凝固等の外科的処置が適応かという判断については熟練を要する問題である。

ところで光凝固の実施時期については、後記のとおり、本症を研究している専門医師の間でも見解が分かれているところであり、木村医師がその判断が適確にできる程度に臨床経験を有していなかつたとしても、そのことをもつて同医師に過失があつたということはできない。

当時の医療水準として本症にⅠ型及びⅡ型についての臨床経過分類が確立していたことは原判決の認定するとおりであつて、治療時期については、Ⅰ型では自然治癒傾向が強く、二期までの病期中に治癒すると将来視力に影響がないので二期までの病期のものについて治療を行う必要はなく、三期に入つて更に進行の徴候が見られたときに初めて治療が問題となるのである。

そこで、木村医師のなした一審原告に対する眼底検査についての判断、すなわち三月一〇日ではⅠ型一期の疑い、同月一七日ではⅠ型一期であつたとの判断が正しいとすれば、当時の医療水準から見て、何ら治療を行う必要はなく、自然治癒を待てばよかつたのであるから、同医師のとつた経過観察の処置には何ら過失がない。同医師の過失を問うためには、三月一七日の時点で少くともⅠ型二期の終りから三期に入る段階であつたことが認定されなければならない。

二  古田医師の過失について

古田医師が一審原告について行つた昭和五一年三月二四日の眼底検査の結果、その所見が的確であつたこと及びこの段階でできるだけ早く光凝固か冷凍凝固の外科的治療を施さねばならないとした判断が正当であつたことは原判決の認定するとおりであつて、この点について同医師の過失がないことは明らかである。

そこで、結果回避義務としての転医、転送義務が問題となるが、その具体的適用については、当該医療行為当時の医療水準並びに医療体制を考慮したうえで社会的非難が相当するか否かを慎重に判断すべきである。

一審原告が大阪市立大学付属病院(以下市大病院という。)で受診することになつた経緯は原審で主張したとおりであるが、当時の医療体制として、光凝固等外科的処置を行える人的、物的設備を具備している病院の数は限られており、しかも転医を依頼すれば無条件に受け入れてくれるような搬送体制は確立されておらず、現に北野病院では満床を理由に断わられている(合理的理由でないことは明らかである。)のであるから、自己の勤務する病院に紹介する場合は別として、何らつながりのない他の病院での診察の予約をとるのに二日を要したとしても社会的に非難されることではない。

また、三月二四日の時点で一審原告の症状が臨床経過分類のⅠ型二期から三期への移行期であつたとする古田医師の診断が正しいとすれば、当時の医療水準によれば、三期において更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題とされたのであるから、二日の遅れは問題とならないはずである。

古田医師の作成した紹介状には、一審原告の臨床経過として「在胎週数三四週、生下時体重一二〇〇グラム」と記載されているから、この記載のみで極小未熟児であることにより未熟児網膜症が起つていることは当然判断できる。次に眼底検査の所見として「三月一〇日、カルテによると血管の一部蛇行を認めたそうです。四月一七日(一週間後)かなり強い蛇行、怒張を認めたということです。無血管領、境界線の記載はありません。同月二四日(二週間後、本日)両眼に無血管領が認められる。」と記載され、これによつて従来の眼底検査の所見が伝えられている。

さらに、右紹介状の最後には「当南大阪病院へは現在一週に一回だけ入院患者だけの診察に大阪医大より来ているが、従つて眼科はない。」と記載されており、右記載を読めば、普通の眼科医であれば、南大阪病院では頻回検査の体制がとれないこと、また眼底に異常を認めた場合にも外科的処置をする設備がないことが容易に理解できるはずであり、前述の記載と合せ判断すれば、市大病院において未熟児網膜症の進行程度を診断のうえ外科的処置が必要であればその処置をとるよう求めている趣旨が容易に判断できるものである。

馬嶋昭生の「未熟児網膜症の発症機転と臨床」と題する論文(昭和五一年三月、日本新生児学会雑誌一二巻一号―乙第九号証)によれば、光凝固の実施時期については術者の考え方、使用する凝固装置、凝固の方法の違いなどによつて、施行時期についての基準が確立しておらず、二期から三期の晩期までの幅があるとされている。

したがつて、古田医師が二期の終りに光凝固を施行すべきだと考えていたとしても、同医師が依頼した他の医師はその時期をもつと遅く考えているかも知れず、一定の範囲内で、光凝固を何時施行するかについては、各医師の自由な判断に委ねられているところである。従つて、転医に際してそのような事項についてまで確定的な意見を述べなければならない義務を存しない。

古田医師は、昭和五一年三月当時大阪医科大学眼科医局に助手として在籍し、月一回南大阪病院の嘱託医として診療を担当していたものであり、同大学においての職務があり、南大阪病院まで頻繁に通える体制ではなかつた。

一方、市大病院には、当時本症の権威である松山教授が在籍しており、眼底検査の器具、光凝固の機械についても最新のものが整備されていたのであるから、当然に南大阪病院における医療水準より高い水準による治療が期待される体制にあつた。

右のような状況のもとにおいて、古田医師としては、一審原告を一旦市大病院へ転送した以上、当時の同大学の医療水準に従い、適確な診断がなされ、仮に松山教授が最初に診察しない場合にも(松山教授宛に紹介状を書いたとしても最初から教授自身が診察することはなく、当日の外来担当医など他の医師に一旦診察させたうえで、異常を発見した場合に所定の手続を経て、教授が診察を開始するのが大学病院の診療体制として普通のことである。)、必要があれば松山教授への連絡がなされ、同教授の診断を受け、適切な処置を受けられる体制が大学病院内にとられていることを信頼すれば足りる。

一審原告のいうように、現行の医療体制のもとで、自己が公立大学医学部付属病院に転送しておきながら、その診断の結果が不安であるとして自ら再検査したり、市大病院へ同病院の医師のなした診断が適切か否かについて問い合せることを期待するのは不可能を強いるものというべきである。

本件においては、従来未熟児網膜症に関する裁判例で問題となつた酸素管理義務、眼底検査実施義務、転医義務を尽している。原判決のいうようにその注意義務の範囲を拡大することは、医療の実情を無視して難きを求めるものであり、かくては診療行為の萎縮を招き、ひいては医学の進歩、新医療技術の開発を抑圧する結果を導くものであつて是認し難い。

三  因果関係

仮に木村、古田両医師に注意義務違反があつたとしても、各医師が注意義務を尽していれば、結果を回避できたか否かは別個に判断されなければならない。

植村恭夫の「未熟児網膜症をめぐつて」と題する論文(昭和四九年九月、産科と婦人科第四一巻第九号―乙第一〇号証)によれば、光凝固法がⅠ型には奏効してもⅡ型に奏効するかは疑問であるとされている。

そうすると本件について光凝固が効を奏したか否かを判断するためには、その前提として一審原告が罹患した本症がⅠ型であつたのか、Ⅱ型であつたのか、その混合型であつたのかについて先ず判断する必要がある。

森実秀子の「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」と題する論文(日本眼科学会雑誌八〇巻一号―乙第一一号証)によれば、Ⅱ型は極小低出生体重児に発現しがちで、Ⅱ型の眼底像の確証として、(1) 網膜血管が後極部から四象限すべての方向に向い著しい迂曲怒張を示すこと、(2) 新生血管帯は叢状をなし一周しまた多数の吻合形成が認められ、所々に出血斑が存在すること、(3)  これらの病変の発現部位が極めて類型的であり、鼻側は乳頭から二―三乳頭径、耳側は黄斑部外輪附近の範囲内にあることを掲げている。

本件において、各医師のなした眼底所見を右基準に照らして検討すれば、本件症例がⅡ型もしくは混合型であることが判断しうる筈である。

四  損害の算定について

仮に本件について一審被告景岳会の責任が認められる場合であつても、その損害の算定に際しては次の点が考慮されるべきである。

幸塚悠一外三名の「酸素非投与未熟児の網膜症発生と双胎の影響について」と題する論文(昭和五〇年二月臨眼二九巻二号―乙第一二号証)によれば、未熟児網膜症発生の要因としては、酸素投与よりも、生下時体重や双胎か否かなどの胎児側因子をより重視すべきであり、低出生体重児、もしくは双胎児の方が本症発生頻度が高率であるとの結論が報告されている。一審原告はまさしく右にいう極小低出生体重児であり、双胎であるから、本症発症については酸素投与よりも胎児側因子に起因するところが大である。

第三  証拠関係(省略)

理由

第一  一審原告の出生から失明に至るまでの経過、南大阪病院小児科・眼科の医療体制、未熟児網膜症の歴史的背景、原因、治療法、酸素療法、眼底検査、医療行為における医師の注意義務に関する当裁判所の認定判断は、次に記載するほかは原判決理由一、二、三(一)・(二)(1)・(2)(原判決七五枚目表二行目から同一〇四枚目裏九行目まで)に説示するとおりであるからこれを引用する。

(原判決の訂正)

一  原判決七五枚目表三行目から四行目にかけての「乙第一ないし三号証の一・二」を「乙第一号証、第二、第三号証の各一・二」と改め、同七六枚目表七行目「、なお」から同裏二行目「採用できない」までを削り、同七八枚目裏三行目「記載した」の次に「(ただし、当日の原告の眼底の状態が右カルテ記載のとおりの状態であつたと認定するものではない。)」を加え、同七九枚目表七行目「しかし、」の次に「木村医師の所見は、」を加え、同一〇行目から一一行目にかけての「出血があつた」の次に「というものであつた(ただし、当日の原告の眼底の状態が、同医師の所見のとおりであつたと認定するものではない。)。」を加え、同一一行目「のでおかしいと感じ、」を削り、同行「カルテ」の前に「しかし、同医師は当時まだ経験の浅い研修医であつて、これまでにこれほど急激に症状が進行した症例を経験したこともなく、また本症Ⅱ型(ラツシユタイプ)の経験もないため、原告の眼底の急変に異常なものを感じ、おかしいとは思いつつも、技量未熟のため正確な病態把握ができず、指導医による診察の必要を感じながら、前記のとおり南大阪病院眼科の診療体制が診察日は週一回水曜で、指導医の古田医師は月一回の診察となつていたため、」を加える。

二  同八〇枚目表七行目「南大阪病院において」の次に「原告を保育器に収容したままで」を加え、同裏一行目の「。」を「、」に改め、同四行目「ものであつた」の次に「(ただし、当日の原告の眼底の状態が、同医師の所見のとおりであつたと認定するものではない。)」を加え、同行「原告は」から同七行目「として」までを「古田医師は、かつてこれ程重篤な症例を経験したことがなく、またⅡ型の症例の経験もなかつたので、原告が未熟児網膜症のⅠ型に罹患していると判断したうえで」と改め、同八一枚目表四行目「有していたが」の次に「(右二症例は原告に比較すればはるかに軽い症状であつた。)」を加え、同八二枚目表三行目「大阪市大から」を「南大阪病院から、大阪市大で」と改める。

三  同八三枚目表三行目から同九行目までを「を診察したが、両眼とも極めて散瞳が悪く、非常に眼底が見づらかつた。同医師の所見によれば、眼底周辺部から後極部に向い網膜は灰白色で、前方硝子体腔に膨隆し、赤道部をこえて黄斑部にまで浮腫(軽度の網膜剥離)を認め、網膜は全剥離の様相を示し、網膜血管は著明に拡張怒張し、紆余曲折していた。そこで同医師は、原告は未熟児網膜症の末期であり光凝固等の外科的療法の適応ではないと判断したが、カルテには「両眼共未熟児網膜症で、網膜血管の拡張、蛇行が著明、蒼白、瀰漫性混濁が認められる」と簡略に記載し、眼底図も主血管四本を記載し網膜剥離を青色により表示したのみで、多忙を理由にその余の所見の記載を省略し、南大阪病院への返書にも右同様の記載しかしなかつた。また、同医師は、原告に付添つて来た南大阪病院小児科の平野医師を原告の母親と勘違いしていたため、同医師に対しては、「外科的療法をする段階ではない。」とのみしか説明しなかつた。そのため平野医師は原告が既に手遅れであるとは考えず、むしろまだ光凝固の適応かどうか難しい段階であると誤信した。阪本医師は、原告は既に外科的療法は不適応であるが、合併症の懸念もあるので、経過観察を要するものとして、約一週間後の四月一日を次回の診察日に指定し、」と改める。

四  同八四枚目表一行目「なお、」から同八五枚目表八行目「できない。」までを削り、同八五枚目裏一行目「争いがない」の次に「。ただし、当日の原告の眼底が同医師の右所見のとおりであつたと認定するものではない。」を加え同八六枚目表一一行目「経験がある」を「経験を有する我国でも有数の未熟児網膜症に関する権威である」と改める。

五  同八八枚目裏四行目「ないし」の次に「第七号証、前掲甲第」を加え、同九〇枚目裏六行目「動脈血」の次に「酸素分圧」を加え、同九二枚目裏四行目「始る」を「始まる」と改め、同九三枚目裏五行目括孤書を「(以下本件研究報告という。)」と改め、同九四枚目表九行目から同裏一一行目までの括弧書を削除する。

六  同一〇〇枚目裏四行目「PO2」を削り、同八行目「当時」の前に「昭和五一年」を加え、同一〇一枚目表二行目から同裏五行目「であるが、」までを削り、同一一行目から同一〇二枚目表七行目「考えると、」までを削り、同一〇四枚目表二行目「第五ないし七号証」を「第二、第三号証、第五、第七号証」と改める。

第二  そこで、木村医師ら眼科医の過失の有無につき検討する。

一  本件では未熟児網膜症の権威である松山医師の昭和五一年四月一日時点における一審原告の眼底の状態の正確かつ詳細な診察が存在するから、これを基準として、木村医師、古田医師、阪本医師の各所見の適否を再吟味する。

(一)  松山医師の所見及び判断

前記認定事実及び原審証人松山道郎の証言によれば、四月一日の松山医師の所見は「両眼とも高度の虹彩後癒着のため、瞳孔が散大せず、不正円である。両眼とも朦朧と透見しうる。乳頭は強度に境界が不鮮明。網膜静脈は両眼とも強度に怒張蛇行し、充盈し、一部コルク栓抜状に屈曲している。網膜は、両眼とも全般に強く浮腫状に混濁し、後極部に及ぶ泡状網膜剥離(一〇ないし二〇ジオプトリー)を来しており、境界線が顕著である。右眼には出血斑も混在している。黄斑部は瀰漫性浮腫状に混濁している。」というものであり、虹彩後癒着の原因は、網膜剥離がかなり長期間(一週間ないし二週間)続いていたため、網膜の後部にある脈絡膜に反応性の病変が起り、脈絡膜につながる毛様体、虹彩に炎症(ぶどう膜炎)が波及し、強い滲出性の病変が起つたことにあると推認され、さらに前記認定事実及び右証言によれば、硝子体に瀰漫性の混濁が存在するが、これはぶどう膜炎及び網膜剥離に由来していること、光凝固は一ジオプトリー(一ミリメートルの約三分の一)以上の網膜剥離があると奏効しないものであり、一ジオプトリー程度の網膜剥離の識別にはかなりの熟練が要求されること、光凝固の実施の適期は極めて短く、そのタイミングの判断には極めて高度の熟練を要し、松山教授としては古田医師よりもはるかに長い経験を有する阪本助教授にすら、当時としては任せられないと考えていたことが認められる。

(二)  木村医師の所見及び判断

前記認定のとおり、木村医師は松山医師の右診察の前日の三月三一日に一審原告の診察をしているが、その所見は「無血管領域(〈省略〉)、境界線(〈省略〉)(両側)、あとの所見は三月二四日の古田医師の所見と同じである。」というものであり、ここにいう古田医師の所見は「瞳孔はほぼ正円状で網膜剥離、虹彩後癒着にまで至つておらず、耳側の無血管帯は見えたが、鼻側は見えにくかつた、網膜には出血斑が見られ、境界線ははつきり見えたが、ヘイジイメデイアが周辺部、赤道部に強く、網膜の血管新生の状態はよく分らない。」というものであつた。

木村医師の右の所見は、先にみた松山医師の所見と比較検討するまでもなくその診察の過誤、未熟さは明白であり、木村医師は当時未だ研修医であり、未熟児眼底検査の技術を修得していなかつたものというべきである。そうであるとすれば、同月一〇日、一七日の第一、二回の一審原告の眼底検査における一審原告の眼底の状態が、同医師の所見の程度にとどまつていたか否かは極めて疑問であつて、第一、二回眼底検査時の一審原告の眼底の正確な診察はなきに等しいというべきである。

(三)  古田医師の所見及び判断

三月二四日時点の古田医師の所見は前記のとおりであるが、同医師の診察については、他の医師がすべて一審原告を保育器から出して診察しているのに対し、同医師のみが一人保育器に収容したまま保育器のプラスチツク壁越しに一審原告の眼底検査をしているのであるが、前掲甲第七号証に照らすと、同医師のした検査方法によつて果して十分に周辺部の検査がなしえたのかについて強い疑問が残るところである。また同医師は、原審での証言において、三月二四日当時一審原告は光凝固の適応であつた旨述べ、さらに同証言において、同医師は自らは光凝固の施術の経験はなく、ただ担当した患者の中に光凝固にまで進んだ二症例の経験を有するのみであるが、何れも原告に比してより周辺部寄りにデイマーケーシヨン・ラインがあり、無血管帯の幅もはるかに狭かつた旨をいうのであるが、前記認定の光凝固施術の実際に照らせば、右二症例とも光凝固に進んだ以上重篤な症例であり、同医師はⅡ型又は混合型の経験を有しないから右症例はいずれもⅠ型の二期の終りか三期の初めであつた筈であるところ、一審原告の三月二四日時点の症状は右二例よりもはるかに重篤であつたというのであるから、この時既に光凝固の適応の時期を逸していたものと推認される。また、前記認定のとおり一審原告の強度の虹彩後癒着の原因が一週間ないし二週間網膜剥離が続いていたことに由来するものであるとすれば、三月二四日時点で既に網膜剥離を来していたことが傍証される。また前記のとおり、古田医師より豊かな経験を有する阪本医師ですら、当時は光凝固とタイミングの判断はむつかしいとされるのであるから、古田医師がよくその判断をなしえたかについても疑問が残るところである。以上を総合すれば、三月二四日時点における一審原告の眼底の状態は古田医師の所見の程度にとどまつていたものとはいえず、網膜剥離を来していたものであり、同医師にかかる過誤が生じたのは、一審原告の症状が急激に悪化して来ていて散瞳状態が極めて悪くなり、非常に眼底が見づらくなつて来ていたのに加えて、保育器のプラスチツク壁越しに診察したため十分な観察をすることができなかつたことに由来するものと推認される。

(四)  阪本医師の所見

前記認定のとおり、阪本医師の三月二六日時点の一審原告の所見は「両眼とも極めて散瞳が悪い。周辺部から後極部に向い網膜は灰白色で、前方硝子体腔に膨隆し、赤道部をこえて黄斑部にまで浮腫がある。網膜は全剥離している。網膜血管は著明に拡張、怒張し、紆余曲折していた。」というものであり、同医師は既に光凝固の適期を逸していると判断したものであるが、松山証言によれば、阪本医師の右所見及び判断は松山医師の四月一日の所見及び判断と時間的経過の点で軌を一にして前後矛盾しないことが認められる。

また同医師の判断について付言すると、既に手遅れの状態であることが明らかであつたからこそ一週間の経過観察としたものであつて、仮に光凝固の適応かどうかを慎重に検討すべき状態であつたとしたならば、古田医師よりも経験豊富で、不十分ながらも従前の経過を知らされている阪本医師が頻回検査の指示をしない筈がないと思われるし、松山教授と至急連絡をとる筈であるが、これらの措置をとつた形跡は窺われない。

(5) 以上の諸事実を総合すると、一審原告の未熟児網膜証は、発症から網膜剥離までの期間が極めて短期間であり、その症状の程度が重いことから、本件研究報告書にいうⅠ型ではなく、激症型というべきであるが、前記認定のとおり、三月一〇日、一七日の眼底検査(木村医師)及び同月二四日の眼底検査(古田医師)が一審原告の眼底を的確に把握していない本件では、Ⅱ型か混合型であるのかは断定しえないものである。

二  眼科医の注意義務

以上の諸事実に基づき、本件につき眼科医の注意義務につき検討する。

(一)  木村医師は、昭和五一年三月一〇日、生後三二日目の一審原告を小児科平野医師の依頼により診察したものであるが、その際の診療依頼票には、一審原告が在胎週数三四週、生下時体重一二〇〇グラムの極小未熟児であり、無呼吸発作を生じ、酸素療法を行つている旨の記載があつたのであるから、当然本症のあることを予見すべく、同日の第一回眼底検査において、網膜は透見できるものの、網膜血管は両側とも蛇行して、左眼には極めて小さい出血らしきものを認めたというのであるから、本症の発症を認定判断すべきであつたものというべきである(ただし、この段階では疑いの診断をして一週間の経過観察としたことについては格別に非難すべき処置とはいえない)。更に同月一七日(生後三九日目)の第二回眼底検査においては、前判示のとおり同医師の診療においても、網膜血管は非常に強く蛇行し拡張し、網膜は全体にオレンジ色を呈し、一部は透見できたものの他はヘイジイ・メデイアのため透見できない状態であり、左眼には大きな出血すら認めたというのであつて、医師免許取得後間もないとはいえ、大学医局で眼科を専攻する研修医であり、本件研究報告にも目を通している眼科医としては、右第二回眼底検査の結果により、一週間の経過の割には著しく高度の症状の進行があつたことを知つたものであるから、遅くとも第二回眼底検査の段階では本症Ⅱ型の疑いの診断をなすべきであつたし、頻回検査を実施すべきであつた。

また前掲甲第三号証、第七号証、原審証人松山道郎の証言によれば、未熟児の眼底検査は特別の訓練を経てその技術が習得できるものであつて、殊に極小未熟児の検査についてはいつそうの複雑さを伴うものであつて、本症の診断については、多数の症例経験を経てこそ的確に病態が把握でき、予後不良型の判別が的確となるものであることが認められ、木村医師の如く、本症患者二、三名の眼底検査を経験した程度の経験を有するにすぎない医師としては、自己の技量の程度を自覚し、本症のような失明という重大な後遺症の可能性がある疾患に対しては慎重に対処し、少しでも自己の経験、知識に照らして不審不明な点を発見した場合は、直ちに経験豊かな他の専門医の診察を仰ぎ、時機を失せず適切な治療を施し、危険の発生を未然に防止すべき注意義務があるというべきである。しかるに同医師がこれを怠り、自らも一審原告の症状の急変に驚き、おかしいと感じながらも十分に本症の病態把握ができないためカルテに病変の詳細を記載せず、頻回検査の必要性にも気付かず、一週間の経過観察として、次週に指導医たる古田医師の診察を求めたにすぎないことは、前記認定のとおり本件症例が激症型であつたことに照らすと不適切な措置であつたというべく、このため一審原告は光凝固等の外科的手術の適期を逸し失明するに至つたものであるから、同医師には前判示認定の医師の注意義務に反する過失があつたものというべきである。

(二)  次に古田医師については、右の経緯で木村医師から一審原告の診察を依頼された際、指導医として研修医である木村を指導監督する責任のある古田医師としては、木村が医籍登録後間もない研修医にすぎず、本症に関しても殆ど経験がなくその診断に信をおき難いことを容易に判断し適宜適切な措置をとらなければならない立場にありながら、木村医師から一週間で非常に症状が進行した旨の報告を受けてなお木村の診断から一週間を置いたことは一審原告の主張するとおり杜撰であつたというべきであり、激症型が少数であること、古田医師には大阪医大における本務があり南大阪病院へは月一回の出張診療であることを考慮しても医師としての注意義務を尽したものとはいえず、過失を免れない。なお、三月二四日の診断について、保育器から出せない健康状態であつたという訳ではないのに、一審原告を保育器に収容したまま、そのプラスチツク壁越しに眼底検査をしたため、眼底の状態を的確に診察しえなかつた点は明らかに同医師の過誤であるが、前記認定のとおり当時既に一審原告の眼底は網膜剥離を来していたものであるから、右過誤は一審原告の失明には何ら寄与していないものというべきである。

(三)  阪本医師については、同医師は南大阪病院からの紹介に基づき一審原告を三月二六日に診察したのであるが、その時既に一審原告の眼底は両眼とも網膜剥離を来し、外科的手術も手遅れであると診断し、かつその診断は誤つていなかつたのであるから、同医師が直ちに松山教授の診察を求めず、あるいは積極的に治療方法を講じなかつたことについて、過失はないというほかなく、その他同医師の過失を認めるに足りる証拠はない。なお、同医師のカルテの記載が不十分な点、南大阪病院への返書を作成するにあたり市井の病院から大学病院へ紹介した患者の返書としては非常識ともいえる簡略な記載しかせず付添つた女医に対し母親と間違えたとはいえ不十分な説明しかしなかつた点につき道義的非難を免れないとしても、これらの事情があるからといつて、阪本医師に医師としての過失があることにはならない。

三  因果関係

一審被告景岳会は、南大阪病院の眼科医に注意義務違反があつたとしても、一審原告の本症はいわゆるⅡ型であつて適期に光凝固手術をした場合においても、光凝固はⅡ型には奏効しないから、同原告の失明と右眼科医の注意義務違反には相当因果関係がない旨主張する。

成立に争いのない乙第九ないし第一一号証によれば、最近の研究により、光凝固法はⅠ型には奏効するが、Ⅱ型には奏効しないのではないかとの疑問が呈されていること、また現実にⅡ型に対しては優秀な技量を有する専門医の懸命の努力の甲斐もなく失明に至る症例の数が多いことが認められるが、右事実から直ちにⅡ型には光凝固法は全く奏効しないということはできないし、またⅡ型には光凝固は無効であるとの医学上の見解が定着したものでもなく、更に本件では激症型ではあつてもⅡ型であるのか混合型であるのかも判明しえないのであるから、光凝固法を施したうえでその結果を争うのであれば格別、手術の適期を逸した本件では右の事由でその相当因果関係を否定し去ることはできず、この不確定要素については、後記の慰藉料額の算定の一要素として斟酌すれば足るものというべきである。

四  被告らの責任

一審被告景岳会が木村医師の使用者であることは当事者間に争いがないから、同被告は木村医師の前記注意義務違反により一審原告に与えた損害につき民法七一五条による使用者責任を負うものであり、右原告との間に締結された診療契約上の債務不履行の責任をも負うものというべきである。

一審被告大阪市については、大阪市大病院の医師について所論の過失があつたことは認められないから、同被告は一審原告に対し何らの責任を負うものではない。

第三  損害

一  逸失利益

一審原告は両眼完全失明のため、労働能力は全部喪失したものというべく、昭和五一年度賃金構造基本統計調査報告第二表によれば、一八才女子の平均年収は一〇七万〇八〇〇円であるからこれを基礎として、一八才から六七才まで就労可能としてライプニツツ式により中間利息を控除してその現価を求めると、その逸失利益は金八〇八万四〇〇〇円(百円未満切捨、以下同様)となる。

1070800×(19.2390-11.0895)=8084004

二  介護料

一審被告は両眼とも完全に失明しているから、生涯他人の介護を要する点が多々あるものと認められるところ、成人までは近親者により介護されることが予想され、成人後は多少とも自助能力を有するから介護料を一日一五〇〇円、一年を三六五日として七六才までライプニツツ式で中間利息を控除すると、その現価は金一〇六八万一三〇〇円となる。

1500×365×19.5094=10681396

三  慰藉料

一審原告は本症による両眼失明のため生涯を暗黒の中で過すことを余儀なくされ、社会生活はもとより日常生活全般にわたつて決定的な制約を受けることを考えるとその精神的肉体的苦痛が極めて大きいことは察するに余りあるところである。

しかしながら、本症は生後間もない未熟児に発生するものであつて、その主因は未熟性にあり且つ成立に争いのない乙第一二号証によれば、双胎の極小未熟児は本症の発生率の高いことが認められること、激症型の本件では適期に治療がなされたとしてもなお失明に至る可能性も高く、失明を免れたとしても瘢痕期病変の程度の予測も困難である等果して一審原告が完全な視力回復が可能であつたか否かにつき不確定要素が多く、これらを慰藉料算定の一要素として考慮するのが相当である。

右慰藉料額の算定に際しては、将来長期にわたり父母にきわめて多大の監護教育上の労苦を負わせつづけることになることによる苦痛を含め、一生を両眼失明状態のまま暮らさねばならない一審原告の精神的苦痛が甚大であること、一審被告景岳会は総合病院として未熟児哺育を行いながらその実態は経験の浅い小児科医を主治医とし、眼科に至つてはアルバイト医師の診察に頼る体制をとつていて、本件のような頻回検査の必要ある激症型症例に対処する体制及び各科医師間の連絡協力体制も不備であつたこと、もつとも本件で適切な対応がとられなかつた背景として一審原告の症例が数少ない激症型であつて担当眼科医も未経験の疾患であつたこと、その他本件に顕れた一切の事情を斟酌すると、一審被告景岳会が一審原告に対して支払うべき慰藉料は金一二〇〇万円をもつて相当と認める。

四  弁護士費用

本件事案の内容、訴訟の経過、認容額その他諸般の事情を考慮すると同被告が一審原告に賠償すべき弁護士費用は金三〇〇万円をもつて相当と認める。

なおこの点に関し一審原告は、南大阪病院の産科担当医は双胎であることを知らず、在胎期間をのばすための処置をとらなかつたものであるから、一審被告景岳会が同原告の未熟性を損害額の算定に際し考慮せよと主張することは許されるべきではない旨主張する。また同原告は乙第一号証の第一頁は、初診日欄の記載に七月を一月と誤記し、診断欄に「1、双胎、2、経産婦」と記載してあるのは両両相俟つて、後に偽造されたことの証左であると主張するが、右指摘の点から直ちに右第一頁が偽造とは認定できず、他にカルテの右第一頁が偽造されたものと認めるに足る証拠はない。そうすると同原告の主張にそう原審及び当審における一審原告法定代理人杉本和子の供述は、成立に争いのない乙第一号証の記載により南大阪病院が双胎であることを知つていたものと認められることに照らしてにわかに措信しえず、弁論の全趣旨によれば杉本和子は第一子も在胎八月の早産であつたことが認められ、これに照らせば同女は体質的に早産の傾向があつたものというべきである。

第四  結論

以上の次第であるから、一審原告の本訴請求は、一審被告景岳会に対し損害金合計金三三七六万五三〇〇円及び内金三〇七六万五三〇〇円に対する不法行為もしくは債務不履行の後の日である南大阪病院退院の日の翌日である昭和五一年四月二三日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で正当として認容すべきであるが、同被告に対するその余の請求及び一審被告大阪市に対する請求は失当として棄却すべきものである。

よつて、一審被告景岳会の控訴は理由がないからこれを棄却することとし、原判決中右と結論を異にして一審被告大阪市に対する請求を一部認容した部分はこれを失当であるからこれを取消したうえ、一審原告の同被告に対する請求を棄却し、一審原告の控訴に基づき原判決中一審被告景岳会に関する部分を主文第三項のとおり変更し、一審原告の一審被告大阪市に対する控訴は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九五条、八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

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